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和宮内親王
仁孝天皇の第八皇女である和宮(かずのみや)は、文久2年(1862年)に御付きの女官29人を連れて世継稲荷(築土神社末社)に参拝したと伝えられる(麹町区役所 『麹町区史』等参照)。
和宮はこの前年の1861年(文久元年)、有栖川宮熾仁親王との婚約を解消し、14代将軍家茂の正妻として徳川家に嫁いでいるが、この頃は討幕運動が最も活発化していた時代でもあった。当時、世継稲荷は「世を継ぎ栄える宮」として人々に深く信仰されており、ここに参拝した和宮も、徳川の世が引き継がれることを必死に願っていたのではないだろうか。 |
徳川家茂像(永嶋孟斎筆、築土神社蔵) | 家茂は正妻の他に側室を一人も持たず、他方で和宮も体が弱かったため、結婚後家茂が1866年(慶応2年)に死去するまでの5年間、子宝には恵まれなかった。
和宮が世継稲荷を参拝したのは、皇室出身という和宮の身分に遠慮して側室を置かなかった家茂に対する、妻としての思いやりでもあろう。家茂のため、そして徳川家のため一途に子宝 ・後継者を願った和宮の切なる思いが伺える。
ちなみに『和宮御側日記』によると、家茂と和宮との間に子ができないことを心配した幕府重臣達は、和宮に懇願して家茂に妾を持たせることを同意させたという。
もっとも、家茂にその気はなく、また目にかなう適格者もいなかったことから、結局なにもないまま1865年(慶応元年)第二次長州征伐発令とともに家茂は京都へ上洛し、その翌年21歳で病死。
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関連ページ ↓ 【有栖川宮熾仁親王】
【世継稲荷(田安稲荷)】
【縁結び(えんむすび)/恋愛成就/夫婦円満】
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