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太田持資(道灌)(国芳筆、築土神社蔵) | 太田道灌について、室町時代から江戸時代にかけて書かれたと思われるいくつかの文献をみると次のように記されている。
「太田道灌文明十年戊戌六月五日、日河社に視へ江城の乾に津久戸明神を崇め給ふ」(『永享記』)。「応仁十年六月津久戸明神祠建」(『太田家譜』)。「太田道灌将門の霊を祭り田安明神と号す」(『歳時記』)。
これらによると太田道灌は、江戸築城後の1478年(文明10年)、江戸城の乾(北西)に平将門の霊を勧請して津久戸明神(田安明神、現 ・築土神社)を建立したことになる。
もっとも、社伝では築土神社の創始は940年(天慶3年)であるから、太田道灌は当時すでに江戸城内にあった津久戸明神を江戸城外に移転させた上で新たに社殿を造営したものと考えられる。
ちなみに、下記『永禄(1558-1569年)江戸図』を見ると、確かに江戸城の北西に「筑戸明神」(現・築土神社)の名が見える(但し、同地図は、永禄期に描かれたものではなく、後世に創作された想像図−フィクション−であるともいわれている)。
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太田道灌は永享4年(1433年)、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の執事・太田資清(すけきよ)の子として相模国(神奈川県)に生まれた。幼名・鶴千代。15歳の時、主君の上杉持朝(もちとも)から一字を賜わり「持資(もちすけ)」と称したが、のちに「資長(すげなが)」と改め、さらに、長禄2年(1458年)仏門に帰依して以降は「道灌(どうかん)」の号を用いた。道灌は上杉家の家宰(家来)として、関東の防衛線を固めるため、河越城(埼玉県)や江戸城を築城し上杉家の勢力を確立していったが、文明18年(1486年)、当時の主君だった上杉定正の策略により暗殺される。 |
永禄江戸図(参考:『江戸図の歴史』 築地書館)
現在の江戸城(皇居)
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