|
春日局銅像(東京都文京区礫川公園内)
1634年(寛永11年)4月17日に記された『要用雑記』に次のような記述がある。「津久戸は御城内氏神につき、大御台様御繁昌の時分は春日殿御取次ぎを以って御上様方へ御札御守、差上げ候」。
つまり、津久戸(築土神社)は江戸城(北の丸)の氏神(守り神)であったことから、「大御台様」(お江与の方:二代将軍秀忠の正妻)が御繁昌の時には「春日殿」(春日局:三代将軍家光の乳母)を通じて築土神社のお守りを御上様方(将軍の妻子)へ届けたと書かれている。
春日局(かすがのつぼね)は1579年、明智光秀の家臣・斉藤利三の娘として生まれた。幼名・お福。幼くして父を失い、苦難の日々を送るも、1604年(慶長9年)二代将軍秀忠の子・竹千代(後の三代将軍家光)の乳母となるため江戸城に入る。春日局は竹千代を将軍にすべく奔走するとともに、江戸城における大奥の制度を確立し支配した。
春日局は、当時より築土神社の氏子であった江戸城北の丸内に屋敷を構え、同じく北の丸に屋敷を構え居館していたお勝(おかち :後の英勝院。家康の側室)や千姫(後の天樹院。家光の姉)や国千代(国松とも。後の駿府城主 ・徳川忠長で、駿河大納言と言われた。家光の弟)と軒を並べたが(下図参照)、その中でも家光の乳母であった春日局は、「其内に春日の邸はもっとも広くかまえたり」(『大猷院殿御実記』/正保4年[1647年])と言われるほど栄華を極めていた(もっとも、下図を見る限りではそれほど広くはないようである)。 |
寛永9年(1632年)の江戸城北の丸(現 ・千代田区北の丸公園)。□が「春日ノ局」(春日局)の屋敷で、□がそれぞれ「英勝院殿」(お勝)、「天樹院殿」(千姫)、「駿河大納言殿」(国千代、徳川忠長)の屋敷。 (参考 :原書房 『江戸城下変遷絵図集』) |
関連ページ ↓ 【お江与】
|