木津川天満宮(築土神社旧末社) |
将門の首塚(東京都千代田区大手町) |
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明治40年発行の『平将門故蹟考』(碑文協會)に次のような記述がある。「菅原道真は延喜三年死す、将門此の歳に生る故に菅公の再生という評あり」。すなわち、菅原道真が延喜3年(903年)に太宰府で没したその年に将門が生まれていることから、将門は道真の生まれ変わりと評されていたというのである。
この他、将門死後間もない頃に書かれたとされる『将門記』などにも、道真の霊験により将門に「親皇」の位記(いき:位を授けるための文書)を伝える場面が記されている。
また、昌泰年間(998〜900年)頃より将門の父・良将は茨城県豊田群(現・石下町周辺)に館を構えており、一説には将門も同所で生まれたとされるが、道真の三男・菅原景行も駿河へ一時左遷されたのち赦免され東国に下り、将門の父・良将のいた豊田群に程近い茨城県真壁郡に居館。
そのため、当時から景行と将門の一族との間にはある程度の親交があったと考えられ、延長4年(926年)景行は将門の叔父・良兼らと真壁郡羽鳥(現・真壁町)に菅原天満宮(現在は茨城県水海道市大生郷に移転)を創始している(景行はまた、将門の弟・将平の学問の師であったとも云われる)。
将門と道真(及びその一族)は生きた時代や境遇が近似しているのみならず、現在まで共に神として各地に広く崇められており、死後の処遇にも共通するものがある。そのため両者のイメージが重なり、冒頭で示したような、「将門は道真の生まれ変わり」との伝説が生じたものと思われる。
築土神社では古くから本殿に将門、末社(木津川天満宮)に道真をそれぞれ祀っていたが、1994年、スペースの関係上やむをえず道真が築土神社に配祀(はいし)されたことで、結果として、将門と道真が死後一千余年の時を経て共に築土神社の相殿(あいどの)に祀られることとなったのにも、何か因縁めいたものが感じられ興味深い。
現在、築土神社の殿内には両者の御霊が並んで鎮座する。
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