|
永禄江戸図(参考:『江戸図の歴史』 築地書館)
築土神社は現在の神社本庁登録表記では「築土神社」となっているから、これが正式名称なのであるが、「築土」の部分は、明治期以前には「津久戸」「筑土」「筑戸」などとも表記されていた。現在でも地名では、「津久戸」や「筑土」などの名称が残っているが、これらの名称の起源・由来はいったいどこにあるのだろうか。
この点については、江戸の地に「津久戸村」という村があってそこに創始したから「津久戸」だという説(鬼武十郎 『築土神社及境外末社稲荷神社一班』 文武書院)、将門の墓の近くに土を盛って築いたから「築土」だという説(織田完之 『平将門故蹟考』 碑文協會)、もともと「江戸明神」だったものが後に「江戸明神」の「江」の文字が「次」と誤記され「次戸」となり、これが更に「筑戸」に変わったという説(『江戸名所図会』)など、様々なものがある。
しかし、室町時代後期〜江戸時代初期頃の作とされる『津久戸大明神縁起』(当社縁起書の中で最も古い時期に書かれた絵巻物で、将門が眉間を矢で射抜かれる場面や将門の首が宙を舞い落下する場面が描かれていたが、昭和20年戦災で焼失した)には、築土神社創始の詳細が記されていて、そこでは、専ら「津久戸」との表記が用いられていたようである。
また、他の社記や文献等を見ても、当社の呼称に「築土」や「筑土」の文字が使われたのは、元和2年(1616年)に当社が牛込(現・新宿区筑土八幡町)の地へ移転して以降であり、それ以前は専ら「津久戸」の文字が使われていたと考えられる。ちなみに、上記『永禄江戸図』では、江戸城の北西に「筑戸明神」の文字が見えるが、これは永禄期(1558年〜1569年)ではなく、江戸時代以降に描かれた想像図であるといわれている(菊池山哉 『五百年前の東京』 東京史談会)。
よって、当社が牛込の地に移転してはじめて「築土」ないし「筑土」の呼称が使われるようになったと考えるのが素直であり、前述の「将門の墓の近くに土を盛って築いたから」とか、「『江戸明神』の『江』の文字が『次』と誤記され『次戸』となり、これが更に『筑戸』に変わった」などというのは、後世のこじつけの感が強い。
すなわち、単に当社が牛込の地へ移転した当時、その周辺の高台を「筑土山」といっていたから「筑土神社」と呼ばれるようになったに過ぎず、「津久戸(つくど)」と読み方が同じであるのも偶然で、両者の間に特に関係はないものと思われる。ちなみに「筑土山」の名称については、筑紫の宇佐(現・大分県宇佐市)から土を運んでできた山であることに由来するとされる。 |
明治15年6月15日東京府発行の築土神社地券(築土神社蔵) |
そしてこの「筑土」が「築土」や「筑戸」などと誤記され、結局「築土神社」との表記が定着していったものと考えられる(当時は読みが同じなら、文字はあまり重要でなかったようである)。
但し、どちらかというと明治以前は「築土」より「筑土」の名が多く使われ、明治15年の地券表記も「筑土神社」となっている(左図参照 :地券制度は明治5年土地の近代所有権を確立するべく定められた制度であるが、明治19年登記法の制定とともに廃止。以後、土地所有権は登記により公示されるようになった)。
なお、地券(左図)にある当社の旧地周辺の呼び名は、当初、「築土八幡町」であったが、明治2年に現在の地名である「筑土八幡町」に変更されている(『郷土歴史大事典』 平凡社)。
|
以上により、「築土」「筑土」「筑戸」の由来については一応の推測がついたが、もともとの名称である「津久戸」は、いったい何に由来するのだろうか。この点、「津久戸」の「戸(と)」は「門(と)」を意味し、江戸氏の館(やかた)の門の名の一つであり、その付近は「津久戸(村)」と呼ばれていて、そこに創建したから「津久戸明神」と名付けられたという説がある。しかし、種々の地図や文献をみても、創建地(現・千代田区大手町)付近に「津久戸」の地名は見当たらない。
ただ、徳川家康江戸入城以前の江戸を描いた地図は皆無で(前述の通り、上記『永禄江戸図』も後世の創作である)、特に慶長期(1596年〜1615年)以前の江戸の地形や地名を正確に知ることは難しい。思うに、神社の社名というものは基本的にその土地の地名にちなんで付けられるのが通例であり、当社も牛込の「筑土山」鎮座当時は「筑土神社」、「田安郷」に鎮座当時は「田安明神」などと呼ばれていた。とすれば、創始以来「津久戸明神」と呼ばれていた以上、おそらく「津久戸」の地名も、創建地周辺、すなわち現在の千代田区大手町か江戸城内のどこかに、確かに存在していたものと考えられる。 |
|