平将門を祀る江戸の古社

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築土神社/平将門を祀る江戸の古社         【English】

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■第一章 築土神社と繋ぎ馬


築和会奉納額「繋ぎ馬」(築土神社蔵)

2004年2月1日午後、築土神社氏子「築和会」(飯塚正秀会長)は築土神社祭神に「繋ぎ馬」の額を奉納した。本殿で宮司祝詞修祓の後、少女2人が除幕。彫刻の黒い馬の両側に「奉献」、その下に「江戸開府四百年」と刻まれ、後世に伝えられることとなった(2004年2月8日付 『週刊千代田』より)。


飯田橋商店街歩道に標された「繋ぎ馬」

築土神社天水桶の「繋ぎ馬」(1818年奉納)

「繋ぎ馬」は、同じく築土神社の氏子である飯田橋商店街のシンボルマークにも使用されている(こちらは築土神社天水桶の彫刻をそのままモチーフにしたもの:上図参照)。築和会も飯田橋商店街も、なぜあえて「繋ぎ馬」を用いたのかというと、氏神である築土神社の御祭神 ・平将門公とその子孫(相馬家)が、戦(いくさ)の時の陣幕や家紋に「繋ぎ馬」を使用したことに由来するものと思われる(築和会HP飯田橋散歩路HP参照)。

この点、茨城県昭楽寺秘蔵の「将門の陣幕」と呼ばれるものには確かに「繋ぎ馬」の紋様が見えるし(下図参照)、将門の戦場での様子を、『将門記』(真福寺蔵)は「将門ハ馬ニ羅(かか)ツテ風ノ如ク追ヒ攻ム」と称し、『行脚随筆』は「平将門逆心(反乱)ノ時、一夜客(一筋の)星落チテ化シテ竜馬トナル」と記していることからみても、将門と馬との間には何か深い関係がありそうである。そこで次に、将門と馬の関係について考証する。


将門が使用した陣幕(秋田県昭楽寺蔵)



■第二章 将門と馬の関係


「伊勢皇大神宮図」(源昭信筆、築土神社蔵)
洲宮神社(千葉県)の小野家伝来文書によると、延長元年(923年)将門は当時柴崎村(現・千代田区大手町付近)にあった安房神社を訪れ、自身の飼っていた馬を神前に奉納したことが記録されている(将門塚保存会 『将門塚の記』参照)。同時に、領内には伊勢神宮(三重県)へ奉納するための馬も多数飼育されていたという。

また、将門は承平元年(931年)現在の茨城県北相馬郡に禅福寺を創建し、ここに絵馬を捧げて戦うと敵は退散し勝利を得たという。そしてこの時の戦いで敵を討った馬が、将門の繋ぎ馬の原型になったとされている(千葉県立大利根博物館・関宿城博物館 『平将門〜史実と伝説の系譜〜』参照)。

将門についてはとにかく「馬」にまつわる伝説、エピソードが多いのであるが、将門と「馬」が密接な関係にあったのは、将門が拠点とした下総や常総地方(現在の千葉県や茨城県)の風土が影響しているものと思われる。

というのも、将門の生まれ育ち活躍した下総や常総の地は古来より馬の名産地で、延喜式(この頃の法律書)によると、当時全国に約60の馬牧(うままき:馬を飼育する山野)があったが、そのうちのほとんどは信濃と関東に集中している。将門の父 ・良将が最初に本拠を置いた佐倉(千葉県佐倉市)付近だけでも7つ、将門が本拠を置いた鎌輪(かまわ:茨城県結城郡千代川村)付近や、後に移転した石井(いわい:茨城県岩井市)付近にもそれぞれ、大結牧(おおいのまき)、長洲牧(ながすのまき)と呼ばれる馬牧があった(下図参照)。

この付近には「馬場」という地名もあり、当時は馬の訓練が盛んに行われ、馬術も馬を養い飼いならす技術も高かったと考えられる。すなわち、将門はこの土地柄を生かし、時に馬の神性を利用し、時には馬を軍事力として利用したのである(崙書房『私の平将門』、小学館『人物日本の歴史−平将門』参照)。



10世紀頃の下総常陸地方(小学館 『人物日本の歴史−平将門』より)

馬を自在に操り兵力として最大限活用した将門のようすを、前章引用の『将門記』はさらにこう記す。

「竜ノ如キ馬ニ騎ツテ(乗って)、雲ノ如キ従(家来の兵)ヲ率ヰル」「鞭(むち)ヲ揚ゲテ蹄(ひづめ:馬の足)ヲ催シテ(走らせて)万里(一万キロ)ノ山ヲ越エムトス」。

この点、紀元前11世紀(今から約3千年前)に書かれた中国の古書『周礼(しゅらい)』によれば、古来中国では六尺以下の馬を「馬」、七尺〜八尺までを「騋(らい)」、そして八尺以上の巨大馬を特に「竜」と呼んだ。本来の純粋な日本馬はだいたい四尺程度であったが、朝鮮半島から輸入した馬との交配による馬質改良は奈良時代からすでに存在し、しかもその多くは関東の馬牧で行われていたと思えることから、関東を拠点とした将門が、通常の倍くらい(八尺以上)の馬に乗っていた可能性は十分に考えられる。

とすれば、「竜馬」ないし「竜ノ如キ馬」とは、あるいは、古来中国にならい、将門が特に巨大な馬に乗っていたことを指して表現したものなのかもしれない(新人物往来社『歴史読本−立体構成平将門』参照)。



■第三章 「馬紋」について

では、このように将門が戦場で活用した「竜(=馬)」が、やがて将門の子孫代々の「家紋」として用いられるようになったのには、どのような経緯があるのだろうか。


放れ馬

片杭繋ぎ馬

両杭繋ぎ馬

まず、馬紋には、大きく「放れ馬(はなれうま)」と「繋ぎ馬(つなぎうま)」の2つがある。そして「繋ぎ馬」は、さらに「片杭」と「両杭」の2種類に分かれる(新人物往来社 『日本の家紋600』参照)。

ちなみに言葉の問題ではあるが、「馬」のことを総称して「駒」とも表現するから、「繋ぎ馬」を「繋ぎ駒」と書いても誤りではない。ただ、「駒」は「子馬(こま)」を意味する場合もあり、将門が戦場で使用した「竜ノ如キ馬」のイメージに合わないし、特に最近は「馬」を「駒」と呼ぶことは稀であることから、当HPでは一応、「繋ぎ馬」で統一する(角川書店 『角川最新漢和辞典』参照)。


将門大明神(千葉県沼南町岩井)の社殿裏に刻まれた「放れ馬」


白と黒の双馬(『将門公正傳』/築土神社蔵)
さて、将門に関しては「両杭繋ぎ馬」が最も有名であるが、「放れ馬」や「片杭繋ぎ馬」も、以下のような将門関連のいくつかの史跡や資料の中に垣間見ることができる。

将門の叔父 ・平良文の系統は後世「千葉氏」を名乗ったが、良文の頃から将門には同情的で、良文より数えて8代目の千葉常胤(つねたね)は現在の千葉県東葛飾郡沼南(しょうなん)町に居館後、将門を偲んで、将門終焉の地とされる茨城県岩井市の方角に位置する台地に「将門大明神」を創建、あるいは、すでにこの地にあった将門大明神の荒廃した社殿を復興したと云われる(朝日新聞社 『将門地誌』、「昭和六十年乙丑岩井区民一同設置案内板」参照)。

そしてこの「将門大明神」は今もこの地に現存するが、安政6年(1859年)11月再建の社殿には見事な「放れ馬」の彫刻が施されているのが見える(上図参照)。

また、昭和3年に築土神社社務所より発行した『将門公正傳』の表紙を飾っている白と黒の双馬も、特にこれを繋ぐ杭は描かれていないことから、「放れ馬」に近いといえる(左図参照)。

一方、現在の築土神社では「片杭繋ぎ馬」をよく使用している。江戸時代から続く「正月勝守」の台紙にもこれを掲載しているし、拝殿や本殿の門張(壁を覆う幕)には「三つ巴」、「九曜星」の社紋とともに「片杭繋ぎ馬」が標されている(下図参照)。



築土神社拝殿の門張

将門にはとにかく馬のイメージが強く、このように「放れ馬」であっても「片杭繋ぎ馬」であっても、馬の紋は「将門」を強烈に連想させるものであるが、中でも「将門」を最も強く連想させるのはやはり「両杭繋ぎ馬」であろう。これは俗に「相馬(そうま)繋ぎ馬」とも言われ、もともとは「相馬氏」の家紋として用いられたものである。



■第四章 将門の子孫「相馬氏」

そこで次に「相馬氏」についてみるに、特に江戸には「江戸氏」をはじめ、明治に入るまで神田明神(千代田区)の社家であった「柴崎氏」や鳥越神社(台東区)の「鏑木(かぶらぎ)氏」など相馬氏の流れを受け継ぐ家が多く、江戸中期頃まで築土神社の神主を務めた「築土氏」も相馬の一族である(碑文協會 『平将門古蹟考』、築土神社社務所 『築土神社及境外 末社稲荷神社一班』参照)。


相馬氏と千葉氏の系譜


千葉常胤(国芳筆、築土神社蔵)
相馬氏の始祖(初代)は、一般には将門から数えて8代目の千葉師常(もろつね:第三章で述べた千葉常胤の次男)といわれ、千葉氏から将門直系の養子となり「相馬」を名乗ったとされる。

おそらく「相馬」の名は、将門の幼名「相馬小次郎」か、あるいは千葉師常が本拠を置いた「相馬郡」(現在の茨城県北相馬郡から千葉県手賀沼周辺)から取ったものであろう。

ただ、相馬氏の系統は直系で将門まで遡ることから、結局、相馬氏の始祖は将門であると考えれば、師常は千葉家から、すでに存在していた相馬家に養子に入ったと単純に捉えることもできよう(そうすると、師常は相馬家の8代目ということなる)。

もっとも、師常は源頼朝に仕え地頭職に補任されるなど、相馬氏は師常の時代に大きく繁栄したことから、師常をもって少なくとも相馬氏「中興の祖」と位置付けることはできる(新人物往来社 『歴史読本−将門・純友とその時代』参照)。



奥州相馬氏の領地(相馬地方)
その後、師常から4代後の相馬胤村の時、領地のうち下総の地を長男胤氏に、そして奥州の地を五男師胤(もろたね)にそれぞれ分け与えたため、相馬家は下総相馬家と奥州相馬家とに分裂した。

このうち奥州を賜った奥州相馬家は、実際には元享3年(1323年)師胤の子・重胤(しげたね)の時に奥州へ移住。最初、奥州(福島県)原町市に居館し、その3年後、やや南の小高町に移転。さらに慶長16年(1611年)利胤の時、相馬市中村城(6万石)に移転した。そしてこの時、利胤はかつて奥州相馬家が居館したこれら3ケ所の地に、それぞれ太田神社(原町市)、小高神社(小高町)、相馬中村神社(相馬市)を建立した(左図参照)。

現在、福島県相馬地方ではこの3つの神社を中心に、毎年7月23日〜25日までの三日間、「野馬追(のまおい)祭り」が行われている(国指定重要無形民俗文化財)。

相馬家の当主が総指揮官となり、神主・氏子・騎馬隊(騎馬武者)が神輿を囲み相馬市内より原町市まで行列を作り行進。その後、甲冑を身に着けた騎馬隊により競馬・旗争奪戦などの行事が行われ、約500人もの騎馬武者が馬術の腕を競い合い披露する。そして最後には、古式に従い、野馬(野生の馬)を追い立てて捕える「野馬懸(のまがけ)」の行事が繰り広げられる。




■第五章(最終章) 将門の繋ぎ馬

将門の「繋ぎ馬」については前述(第ニ章)の通り、承平元年(931年)、現在の茨城県北相馬郡に禅福寺を創建した将門が、ここに絵馬を捧げて戦った時に敵を討った馬が原型になったとされているが、「繋ぎ馬」の紋があえて「両杭」で繋がれているのには、むしろこの相馬の「野馬追い祭り」が深く関係していると思われる。

すなわち、そもそも「野馬追祭り」は、延長元年(923年)、将門の叔父 ・良文が将門と力を合わせて戦ったが敗れたため、将門あるいは良文が再起を賭けて下総国葛飾郡小金ヶ原で野生の馬を追い立て軍事訓練をしたのが始まりで、これが元享3年(1323年)、前述(第四章)した相馬重胤のときに相馬家代々の祭事として確立したとされる(『相馬故事秘要録』、新読書社 『将門伝説』参照)。

そしてこの時捕らえた馬は2本の松の木の間に繋ぐならわしとなり、これが、相馬家の家紋である「両杭繋ぎ馬」の原型になったものと考えられる(『福島県史第23巻』参照)。


「野馬追祭り」で小高神社の境内に馬を追い込み捕らえるようす

ただ、『相馬故事秘要録』はまた、次のようにも記している。

「承平年中(931-937年)葛飾郡小金原に多くの馬を放て野馬となす。将門その野馬を敵として追、その野馬の内、最も遂風の駿馬(速く勢いのある馬)なるを豪敵となし力を合わせこれ捕らえ柱建て繋ぐ。その(繋がれた)馬、手足を立て歯を咬み鳴らし縄を解かんと欲するの勢い勇猛なり。見る人その勢いの猛を感心せざるはなかりき。これを以って軍用第一の幕の紋となして天下を欺く強敵の勇威を表し、勝利に用いると云ふ」。

これをみると、馬を繋ぐこと、それも野馬のうち最も勢いのある「遂風の駿馬」を繋ぐこと自体に意味があったと考えられる。すなわち、繋がれた縄を解こうと歯を咬み鳴らし必死にもがく荒馬と、これを見事捕らえて繋ぎとめた智仁の武将こそが、闘神「平将門」のイメージに最もよく合致したのである(新読書社 『将門伝説』参照)。そして「繋ぐこと」自体に意味がある以上、それが「両杭」であるか「片杭」であるかはもはや重要ではない。

このように、今も昔も将門には「馬」のイメージが付きまとう。将門が浮世絵や錦絵の中で描かれる際は、一緒に「馬」が描かれることが圧倒的に多いし、馬に乗った姿、馬と一緒にいる姿が最も「将門らしい」のである。

そして他方で、「馬」から闘神「平将門」の神性(御神徳)を最大限に引き出し利用するためには、単なる「馬」ではなく、築和会奉納額(第一章冒頭)に描かれたような、「将門により繋ぎ留められた荒馬」、すなわち「繋ぎ馬」であることこそがまさに重要な意味を持っていたのである。


将門公馬上像(築土神社蔵)

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