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将門伝説 >> | (5)成就院楞厳寺(じょうじゅいんりょうごんじ) |
安政3年(1856年)近江屋板江戸切絵図(■が成就院楞厳寺)
江戸時代以前、神社の役職の一つに「別当(べっとう)」と呼ばれる役職があった。「別当」とは神社に属しつつ仏教儀礼を行う僧侶のことで、神僧や社僧とも言われた。江戸時代以前には伊勢神宮以外の多くの神社に別当が置かれ、僧侶による神社祭祀・神前読経などが一般化。神社における別当の権威はときに本職の神主をもしのぎ、神社の仏教的色彩はますます強くなっていった(神仏習合:しんぶつしゅうごう)。
築土神社でも1540年(天文9年)に別当職を設け、勅宣(みことのり:天皇の命令)により比叡山延暦寺の座主(ざす:僧侶の中でもとりわけ身分の高い者)を招いて上平川(現・大手町付近)に楞厳寺(りょうごんじ)を創始し、その住職を別当に任命。以後、一定期間を任期として楞厳寺の住職が代々築土神社の別当職に就いた。楞厳寺は正式には善龍山成就院楞厳寺といい、その創建の詳細は不明であるが、一説には上平川にあった観音堂が楞厳寺の前身であるとされる。楞厳寺は天正年間(1573〜1591年)頃、新宿区筑土八幡町に移転。
ところが1868年(明治元年)、天皇復権(神道優位)を掲げた明治政府は全国の神社に別当の廃止や仏語の禁止を命じ、仏像を御神体とすることも禁じた(神仏分離)(弘文堂 『神道事典』参照)。
これにより、それまで別当職に就いていた寺院の僧侶は神社から退去することを余儀なくされ、多くの寺院や仏像等の文化財が廃絶された(廃仏毀釈:はいぶつきしゃく)。当時筑土八幡町にあった楞厳寺もこのとき廃絶。ここに安置されていた本尊の仏像(太刀佩観音:たちはきかんのん)も他の場所に移されたという。
この「太刀佩観音」はもともと江戸 ・上平川村の観音堂に置かれていたもので、将門がこれを深く信仰していたという由縁で、将門の首はまずここで供養されたあと柴崎村の首塚(現・大手町)に埋葬されたというが、いつの頃からか、「太刀佩観音」は楞厳寺に移され、以後、神仏分離により廃絶されるまで同所に安置された。「太刀佩観音」は実は将門をかたどったものではないかとも云われている(碑文協會 『平将門故蹟考』参照)。 |
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